『太平年~乱世の夜明け~』は、五代十国時代の中国を舞台に、呉越の王族・銭弘俶(せんこうしゅく)が戦乱や王位継承の争いを経験し、やがて呉越王となる中国歴史ドラマです。
主人公の銭弘俶をバイ・ユー、後に妻となる孫太真をチョウ・ユートンが演じます。
銭弘俶は北方への旅で後に後周の皇帝となる郭栄や宋を建国する趙匡胤と出会います。ところが呉越では兄たちの死や重臣・胡進思による政変が起こり、王族の一人だった銭弘俶が国を治めることになるのでした。
この記事では『太平年』全48話のあらすじを4話ずつ紹介。最終回の結末や人物関係の疑問や時代背景、ドラマと史実の違いも解説します。
※全話あらすじ一覧以降には、最終回までのネタバレが含まれます。
太平年のあらすじ
物語が始まるのは941年。唐が滅亡してから30年以上が過ぎ、中国各地では複数の国が争っていました。現在の浙江省を中心とする呉越では王族の銭弘俶が王室の財産を管理する内庫の不正に気づきます。
事件を調べるため商人に変装した銭弘俶は南唐の商人が乗る船に潜入。しかし王宮では、不正の証拠を隠そうとした者が内庫に放火。父の銭元瓘が亡くなり、兄の銭弘佐が呉越王となります。
銭弘俶は臣下の水丘昭券とともに使節として北方へ向かいます。孫太真も同行して途中で負傷した郭栄を救出。汴梁では趙匡胤と知り合いますが、契丹軍の侵攻によって住民や官僚が犠牲になってしまいます。
呉越へ帰国した銭弘俶を待っていたのは百姓の土地を奪う役人や豪族、軍の食料を横領する者たちでした。銭弘俶は孫太真や地方の役人と協力して土地台帳や契約書を調べて不正を追及します。
そのころ王宮では王族と軍を率いる胡進思の対立が深まっていました。銭弘佐が亡くなり次に統治を引き受けた銭弘倧も胡進思に廃位され、銭弘俶が呉越を治めることになります。
中原では後周に続いて宋が成立。宋が周辺国への遠征を進めるなか、銭弘俶も呉越の統治を続けるか、宋に降伏するかという判断を迫られるのでした。
太平年の全48話あらすじ一覧
第1~4話:王室の不正と銭元瓘の死
後晋では将軍の張彦沢が残虐な行為を繰り返し若い趙匡胤は、そのような将軍が処罰されないことに疑問をもっていました。
一方、呉越では王室の財産が不正に持ち出されていました。銭弘俶は商人に変装し、南唐の李元清が乗る船に潜入します。
しかし王宮では不正に関わった者たちが証拠を隠すため内庫に放火。火災に驚いた呉越王・銭元瓘は病状が悪化して941年に亡くなります。兄の銭弘佐が王位を継ぎ、銭弘俶と孫太真もこの事件をきっかけに親しくなっていくのでした。
第5~8話:北方への旅と郭栄との出会い
銭弘俶は水丘昭券に同行して北方へ向かい、孫太真も旅に加わります。途中では孫太真が三兄と呼ぶ孫本と再会、商丘では負傷していた郭栄を助けます。戦争で村が荒れて多くの住民が故郷を失う様子は呉越で育った銭弘俶が初めて見るものでした。
汴梁では趙匡胤とも知り合いますが、張彦沢の軍が迫り都は戦争に備えることになります。銭弘俶は難民の扱いをめぐって郭栄と意見が合わず、敵の夜襲では孫太真とともに戦うことになります。
第9~12話:汴梁の陥落と張彦沢の処刑
趙匡胤は敵軍の食料を焼き払う作戦に成功。戦いの合間には銭弘俶、郭栄、孫太真と城壁で酒を酌み交わします。しかし馮道が撤兵を命じて張彦沢が汴梁に入ると、住民や官僚が殺害され宰相の桑維翰も命を落とします。
銭弘俶は契丹の皇帝・耶律徳光の前で張彦沢の行為を告発しますが、自身も拘束されてしまいます。馮道は張彦沢の処罰を求め、耶律徳光は処刑を命じます。そのころ太原では劉知遠が皇帝となり後漢を建国していたのでした。
第13~16話:百姓の土地をめぐる不正と福州救援
銭弘俶たちは郭栄や趙匡胤と別れて呉越へ帰国します。途中で立ち寄った寧海では百姓の土地が不当に取り上げられていました。崔仁冀が持参した証拠から地方の役人や有力者が関わる不正が明らかになります。
ところが南唐が福州へ攻め込んだため、銭弘佐は援軍の派遣を優先します。銭弘俶は軍の監督を命じられますが、担当する兵士たちは規律を守らず、訓練から始めなければなりません。さらに洪水で補給路が使えなくなり、温州で食料の確保に取り組みます。
第17~20話:軍糧の横領と程昭悦の企み
温州の倉庫を調べた銭弘俶は前線に送るはずの食料が隠されていることを発見します。兵士たちが食料不足に苦しむ一方、地方の役人が軍糧を横領していたのです。銭弘俶は知州の欧陽寛を処罰し前線へ食料を送ります。
王宮では程昭悦が財産を使って臣下たちを味方にして南唐の李元清とも接触していました。銭弘佐は程昭悦の処罰に動きますが、胡進思の協力を得る必要がありました。水丘昭券が交渉した結果、胡進思は大司馬に任じられ、軍の指揮を任されます。
第21~24話:台州赴任と豪族への処罰
程昭悦は自ら火を放って死亡、財産も焼失します。しかし台州では程昭悦に関係する不正によって、多額の税収不足が発生していました。銭弘俶は台州へ赴任して百姓から取り上げられた土地や不当な貸付を調べ始めます。
孫太真も調査に協力し、黄龍島から食料を調達したり戸籍や土地台帳の確認を行います。銭弘俶は沈寅や崔仁冀らと協力して豪族たちに契約書の提出を要求して誰が百姓の土地を奪ったのかを調べていきます。
第25~28話:兄の死と胡進思の政変
銭弘俶は台州の豪族たちに契約書の提出を求め、交易の許可なども条件にして交渉します。そのころ銭弘佐が病死して兄の銭弘倧が新たに統治を引き受けます。銭弘俶と孫太真も結婚しますが、王宮では銭弘倧と胡進思の対立が深刻になっていました。
銭弘倧は何承訓らと胡進思の殺害を計画します。しかし何承訓が計画を密告したため、胡進思が兵を率いて宮廷を制圧。銭弘倧を廃位して弟の銭弘俶を擁立しようとします。
第29~32話:銭弘俶の継承と郭威の挙兵
銭弘俶は呉越の留後となり、胡進思と水丘昭券を宰相に任命しようとします。ところが何承訓が水丘昭券が謀反を企んだため処刑したと報告します。怒った銭弘俶は何承訓をその場で斬り殺し、胡進思や臣下たちに忠臣を殺しておきながら自分を王にするつもりなのかと問い詰めますが、胡進思は軍を握っており思うようにはいきません。
中原では後漢の皇帝・劉承祐が有力な将軍たちを排除しようとしていました。郭威の家族も殺害され、郭威は軍を率いて朝廷に反旗を翻します。
第33~36話:後周の成立と郭栄の即位
郭威は951年に皇帝となり、後周を建国します。養子の郭栄を後継者にして954年に郭威が亡くなると、郭栄が皇位を継承しました。しかし北漢と契丹の連合軍が侵攻したため、郭栄は軍を率いて高平へ向かいます。
趙匡胤も参加した戦いで後周軍は北漢軍に勝利しました。郭栄は軍の問題に対処して兵士や指揮官の扱いを改めます。一方、銭弘俶も南唐に対して軍を派遣、後周を支援することになります。
第37~40話:郭栄の死と宋の成立
後周と南唐の戦争では銭弘俶が郭栄と会談して南唐の君主に皇帝の称号を放棄させることで和平を成立させようとします。しかし郭栄は959年の北方遠征中に病気となり、間もなく亡くなってしまいます。
翌960年、趙匡胤は陳橋の兵変によって皇帝となり、宋を建国しました。銭弘俶は新しい皇帝に臣従して名前を銭俶に改めます。以後は二人は宋の皇帝と呉越の君主として使節や貢物を通じた関係を続けます。
第41~44話:宋の軍制改革と世子・銭惟濬の失策
趙匡胤は将軍が兵を率いて皇帝を廃する事態を防ぐため、宴席で将軍たちに兵権を手放させます。さらに南唐への遠征を進め呉越にも軍事協力を求めます。
ところが呉越では世子の銭惟濬が李元清にそそのかされ、王の印を使って南唐の軍を降伏させようとします。李元清は銭惟濬の署名と印を利用し、宋と呉越の関係を悪化させようとしていました。息子の行為を知った銭俶は宋側に事情を説明して対処することになります。
第45~48話:南唐の滅亡と呉越の領土献上
975年、南唐が宋に滅ぼされました。翌年、銭俶は妻の孫太真や息子の銭惟濬とともに宋の都へ向かい、趙匡胤と対面します。趙匡胤は一家を厚くもてなし、孫太真を呉越国王妃に冊封します。
しかし、その年に趙匡胤が亡くなり弟の趙匡義が太宗として即位します。さらに孫太真も病死して銭俶は妻を失いました。周辺国が相次いで宋の領土となるなか、銭俶は呉越の領土を献上することを決意。978年、一族や臣下とともに宋の都へ向かうのでした。
太平年の人物関係で気になる疑問
なぜ九男の銭弘俶が呉越の王になった?
銭弘俶が呉越を治めることになったのは、兄の銭弘佐が亡くなり次に統治を引き受けた銭弘倧も胡進思によって廃位されたためです。
銭弘俶は呉越王・銭元瓘の九男で銭弘佐と銭弘倧は父親が同じ兄に当たります。作中の「九郎」という呼び名も九番目の息子だったことに由来します。
胡進思は銭弘倧を廃位した後、弟の銭弘俶に統治を引き受けさせようとします。銭弘俶は兄の安全を確かめ、その命を守るために留後となりました。兄たちの死と政変によって、第九子の銭弘俶が国を治めることになったのです。
なぜ銭弘俶は銭俶と名乗ったのか?
銭弘俶が銭俶に改名したのは、宋の初代皇帝・趙匡胤の父親が趙弘殷という名前だったから。中国では皇帝や祖先の名前に使われている漢字を避ける「避諱(ひき)」という習慣がありました。宋に臣従した銭弘俶は皇帝の父・趙弘殷の「弘」の字を使うわけにはいかなくなりました。そこで名前から「弘」を外して銭俶と名乗るようになったのです。
銭弘俶・趙匡胤・郭栄は史実でも親友だった?
三人は実在した人物ですが若いころに北方で出会い親友になったという設定はドラマの創作です。
史実では、三人が若いころから一緒に戦ったり、酒を酌み交わしたりした記録はありません。ドラマでは銭弘俶が北方の戦争を自分の目で見た経験を後に宋へ領土を献上する理由として描いています。
太平年の見どころ
北方の戦争と呉越の政務を経験する銭弘俶
銭弘俶は北方で、戦争によって住民が故郷を失い、官僚まで殺害される事態を経験します。帰国後の呉越でも、役人や豪族が百姓の土地を奪っていました。
銭弘俶は契約書や土地台帳を調べ、不正に関わった者を処罰しようとします。百姓を助けたいと考えても、証拠や食料、調査に協力する役人が必要です。誰に何を命じ、豪族たちにどう対応するのか、王となる前の政務にも注目です。
王の命令に従わない胡進思
胡進思は王に仕える臣下ですが、軍を掌り銭弘倧を廃位してしまいます。銭弘俶もこの人物に擁立されて統治を始めることになります。
しかし自分を擁立したとはいえ兄を廃位した重臣を信用できるのでしょうか。銭弘俶が胡進思の要求をどこまで認めて国を治めるためにどのような命令を出すのか。君主と軍を率いる臣下の関係もドラマの見どころです。
孫太真が担う台帳調査と糧食の確保
孫太真は銭弘俶と北方へ旅をするだけでなく、帰国後も不正調査や食料の確保に協力します。台州では人を集め、大量の台帳を書き写す作業を進めました。
土地の所有者や貸付の内容を調べるには記録を確かめる作業が欠かせません。黄龍島からの食料調達も含め、銭弘俶が調査や交渉を続けられるよう孫太真が何をしているかも描かれています。
太平年の主要キャスト・登場人物
銭弘俶(せんこうしゅく)
演:バイ・ユー(白宇)
呉越王・銭元瓘の第九子で、後に呉越を治める主人公です。北方への旅で郭栄や趙匡胤と知り合い、帰国後は土地の不正調査や軍糧の確保に取り組みます。作中では「九郎」とも呼ばれます。
孫太真(そんたいしん)
演:チョウ・ユートン(周雨彤)
銭弘俶とともに北方へ旅をする女性で、後に妻となります。ドラマでは黄龍島を治める兪大娘子の娘として登場し、台州では土地台帳の調査や食料の確保にも協力します。
趙匡胤(ちょうきょういん)
演:ジュー・ヤーウェン(朱亜文)
後に宋を建国し、初代皇帝・太祖となる人物です。若いころに銭弘俶や郭栄と出会い、汴梁の戦争を経験します。後周に仕える武将となり、郭栄の死後に皇帝となります。
郭栄(かくえい)
演:ユー・ハオミン(兪灝明)
郭威の養子で、後に後周の皇帝・世宗となる人物です。柴栄の名前でも知られています。ドラマでは負傷していたところを銭弘俶たちに助けられ、北方での戦争をともに経験します。
水丘昭券(すいきゅうしょうけん)
演:バオ・ジエンフォン(保剣鋒)
呉越に仕える臣下で、銭弘俶を北方への使節の旅に同行させます。帰国後も銭弘俶を支え、王家と胡進思の交渉に関わります。若い王族たちに、政治や外交での対応を教える人物です。
胡進思(こしんし)
演:ニー・ダーホン(倪大紅)
銭元瓘の時代から呉越に仕え、軍を率いる重臣です。王位継承にも関わり、王族と対立することがあります。配下の将兵を通じて、国王の命令にも対抗できる兵力を持っています。
郭威(かくい)
演:ジアン・カイ(蒋愷)
郭栄の養父で、後周の初代皇帝となる人物です。後漢の有力な将軍でしたが、朝廷によって家族を殺害され、軍を率いて反旗を翻します。その後、951年に後周を建国します。
馮道(ふうどう)
演:ドン・ヨン(董勇)
中原で王朝が交代するなか、複数の君主に仕える老臣です。汴梁での戦争や契丹との交渉、新しい王朝の成立に関わります。郭威や郭栄にも仕え、若い登場人物たちに助言します。
太平年の時代背景と知っておきたい用語
五代十国時代とは?
ドラマは五代十国時代を舞台にしています。
五代十国とは唐が滅亡した907年から979年に宋が北漢を滅ぼして統一するまでの期間のこと。
この期間は華北の黄河周辺の中原で王朝が次々に交代しました。後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五つの王朝があったので五代といいます。
南部やその周辺地域にも複数の国が存在した時代です。それらの国を「十国」といいますが、実際には十の国が同時に存在したことはなく、たくさんの国があったという意味です。
『太平年』が始まる941年は三番目の後晋の時代。その後、後漢、後周へと王朝が代わり960年には趙匡胤が宋を建国します。
その後、宋は周辺国の征服を進め975年に南唐を滅ぼし、978年には呉越を併合、翌979年には北漢を滅ぼしています。
呉越と南唐はどこにある?
呉越は杭州を中心に現在の浙江省一帯などを治めていた国です。銭弘俶が不正調査に取り組む台州や、軍糧を調達する温州も領内にありました。
南唐は呉越の西側に広い領土を持ち、金陵、現在の南京を都としていました。両国は隣接し、福州をめぐる戦争などで対立します。
北方への旅で登場する汴梁は、現在の河南省開封です。後晋、後漢、後周、宋が都とした都市で呉越からは遠く北に位置します。
節度使と留後
節度使はもともと辺境の軍を指揮するために設けられた官職です。唐の後半には地方の政治や財政にも権限を持ち、五代十国時代には、節度使だった人物が皇帝となることもありました。
留後は節度使などの職務を代行する者の呼び名です。呉越では君主の交代時に後継者がまず留後として統治を始めて、その後に中原の皇帝から正式な任命を受けることがありました。
銭弘俶も継承直後は留後として政務を担当して後に正式に王になりました。
太平年は実話?ドラマと史実の違い
『太平年』は、実在した銭弘俶や趙匡胤、郭栄を登場人物とし、王朝交代や呉越の領土献上をもとにした歴史ドラマですが、若いころの出会いや人物同士の会話、地方での不正調査に創作です。
胡進思による廃位と銭弘俶の継承は史実
胡進思が銭弘倧を廃位し弟の銭弘俶を擁立した出来事は史実です。『宋史』巻480にも、銭弘俶が兄の廃位後に呉越を継いだことが記されています。
同書には、胡進思が後難を避けるために銭弘倧を殺そうとしたことも記されています。しかし銭弘俶は兄の殺害を認めず、信頼する薛温に護衛を命じました。
胡進思が送った刺客は薛温らに倒され、銭弘倧はその後も生き延びます。ドラマでも描かれる、銭弘俶が廃位された兄の命を守ろうとする行動には、歴史書に記された出来事が使われています。
史実の銭俶は宋に嵌められて国を失う
ドラマでは銭弘俶が若いころに郭栄や趙匡胤と親しくなり、戦乱を終わらせたいという願いを共有します。そして宋による中国統一を受け入れて平和のために呉越の領土を自分から差し出すという結末になっています。
でも史実では銭俶が自分の意思で領土を差し出したとはいえないんですね。
まず銭弘俶は趙匡胤とは親しくなってません。975年に宋が南唐を滅ぼすと呉越は宋に軍事力で対抗することが難しくなりました。
978年に銭俶は太宗 趙炅(趙匡義)の即位のお祝いのために宋の都・開封を訪れます。ところが、太宗は帰国を認めませんでした。さらに閩南(福建)の陳洪進が圧力を受けて屈服して領土を献上。このままでは国が滅ぼされると思った臣下の崔仁冀が銭俶を説得して、銭俶は泣く泣く領土を宋へ引き渡します。
ドラマのような悲壮感あるヒーローらしい決断ではなく。史実の銭俶は貢物を献上して挨拶をしたら帰れると思ったら、まんまと宋に嵌められて仕方なく降伏したわけです。
こうして呉越は大規模な戦争をせずに宋に併合されました。中国ではこの出来事を「納土帰宋」と呼び、銭俶が平和のために領土を献上したと評価することがあります。
確かに銭俶が宋との戦争を避けたので呉越の住民は大きな戦を免れました。でも宋の太宗が領土的野心を持ち周辺国を次々と滅ぼしました。呉越の土地と民も狙ってます。銭俶が無理やり領土の引き渡しを迫られていたことも史実なのですね。
ドラマでは銭弘俶と趙匡胤の友情を創作して銭俶が宋による統一を望んで領土を差し出したように描いていますが、それはドラマなのです。


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